昭和48年10月27日 朝の御理解



 御理解 第22節
 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受け様と思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ。」

 受け物を作るという。受け物を作れと仰っておられる。出来るだけ大きなおかげがいるのですから、どうしても、大きなおかげの受け物を用意さしてもらわにゃいけません。又、受け物ばかりが大きかっただけでもいけません。それを頂いたおかげを汚さぬ様に、穢さん様にする為には、その受け物が、矢張り綺麗でなからなけれはいけません。其処で合楽では、限りなく美しゅう成ろうとこうね、限りなく美しゅう成ろう。
 愈々豊かな大きな心を頂かして貰おうと、愈々豊かに大きなしかも美しい、そういう受け物を頂く事に精進さしてもらう。そこで私共の心の状態と云う物がです、果して受け物が綺麗になって行って居るだろうか、美しゅう成って居るだろうか。おかげが愈々大きなおかげの受けられる為の精進、愈々大きくなる事の為の精進をして居るだろうか、と云う事になります。
 所が実際は本当に汚ない自分であったりね、汚れ果てた自分であったり、又はこの位な事が自分の心の一つに治められないと云うか、自分の心の貧しさ、又は小ささに、自分ながらまあ驚く位のおかげを頂きますと、是ではならんという気も起きますけれども、心が汚い事も、心が小さい事もね、もうそれは自分の性分として、それを大きくも、綺麗にしょうともしない。それでは信心にならんのです。
 そこでどう云う生き方にならせて頂いたら、大きゅうなれるかどう云う生き方にならせて頂いたら綺麗になれるかと云う事を目指して、お互いが信心の稽古をしなければならん。それがおかげの受け物が悪ければ、おかげが漏ると仰る受け物。次には徳を受けると云う事を教えておられる徳を受ける。充分の徳を受け様と思えば、ままよと云う心を出さねばならぬ。おかげは受けられぬお徳というおかげである。それはままよと云う心、ままよとは死んでもままよの事だと。
 是は一両日頂いとります様に、ままよと云う事は船もろともにと云う事。船もろともにと云う心になれば楽じゃと。四神様が仰っとられる。その楽だと云う事が即に徳です。それには矢張りままよと云う心が開けて来る。昨夜土居の共励会で、皆さん十二時頃でしたか帰って見えた。文男さんが、熊谷さんを吉井まで送ったというので、なら帰って来るまで待たせて頂く積りで、私ここで例の信心話をさして頂いた。神様は氏子が、おかげを受けると云う事を、又受けてくれると云う事を願っておられる。
 その為にはその受け物を氏子が作ろうと云う気になるのを待つと仰る。神様は氏子が本当におかげを受けてくれると云う事を願っておられる。そこでですなら神様は氏子が今日の御理解でいうと受け物を作ると言う事を、その受け物を作ると云う事を、言うなら気長に待っておられる。だから私共が受け物を作ると云う事に、気付かして貰わなければならない。そこでです昨日も北野の中村さんが、久し振りで参って見えました。
 大変この頃は目が不自由になっておられますから、それでも一人でお参りして来ると云う事は相当の勇気が要る事である。まあ参って来る行き戻り、まぁ本当に神様が杖にもなって下さり、神様が手を引いて下さる様に、色々と御繰り合わせ頂いて、お参りして来た。その実は目が悪い、近所に目が悪い方があって、最近手術をしておられる方がある。それであんたも、どうでも診察を受けるだけでも受けて見れと勧められるので、診てもらうだけでも、診てもらったらどうかと勧められて、診察を受けられた。
 片一方の目はどうやらわからんけど、片一方の目は請け負うて治してあげると、お医者さんが言われた。そこでまあ神様にお願いをし、お伺いをさしてもろうて、お伺いしたからまあー医者に掛かるなら、掛かろうと云う事で、実はその事べ今日は相談に上がりましたとこう言うのです。それはもう神様、人間がお医者さんが請け負うて、目が見える様にして下さるなら、そりゃお願いせねばいけん。それは掛からにゃいけん。それを掛かるなという事は、神様は言われるはずはないからと云う事でした。
 そしてその事をそう言いながら、改めて又神様にその事をお願いさしてもらい、是は神様にお願いしなくってもね、医者に患ると言うのを患るなという神様じゃないですよ。だから、それーやあそれを請け負うても治してやるというお医者さんがあるなら、それこそ神様にお願いをして、掛からして貰うと言う事は有難い。だからそれはお願いして、掛からして貰ろたら良いというて、今度改めて神様にその事をお願いさして貰よりましたら、大きなまあー楠なんかですね。
 あんな大きな木が、それが全部こう枝が切ってしまわれて、大きな言うならこんな切り口があって、その切り口にからもう小さい小さい、あの柳のねしだれ柳が下がっとるでしょう、あの位の小さい芽が出て来よる所を頂いた。ね。だから芽は出ると云う事は、目は見える様になるだろう。けれども肝心要の命が無かったら、はあおかげで目が見える様になったちゅうちから、翌日コロッと死んどったらどうすんのと私が申しました。まちっとね矢張り、とてもとても根本の所を頂かにゃいけん。
 信心をさせて頂くなら、何時も受け物を頂かして貰わんならん。お徳を受けるチャンスなんかと云う物は、何時もかつもざらにあるもんじゃない。そう云う時にです、これは中村さんだけの事じゃない。お互いの信心がです、そう云う時に、そしてならあんた、もう幾つになるかと聞きましたら、七十七になる。母親が七十七の九月に亡くなった。そんならお母さんより一ヶ月生き延びとる様なもんじゃけん。
 あんまりバサラカ欲を言いなさんな。そして七十七年間も、元気でおかげ頂いて、今日までまあどうやら最近とみに目が悪くなったと言うても、まだ目が見えておる。よし是が見えなくなってもです、両眼が言わば見えなくなっても、もう七十七にもなってどけ行くこけ行くもないじゃないか。長い間二十何年間合楽でおかげ頂かして貰ろうて、御理解も頂いて、それこそ自分でも和尚の様な話が出来る様におかげを頂いとるのだから、その頂いとる教えをいうならば、味合わせて頂く所に。
 是は目が潰れてしまわなければ、目が見えんごとならなければ所謂盲目にならなければ、解らない有難い世界が私はあると思う。是は例えば耳が遠なるというのも同じこと。言うならば音から縁が切れてしまう。音の世界から、所謂雑音が一つも聞こえて来ないね。そこにです、又目に見えない世界、又は聞こえない世界に住まわして頂いて、とても聞こえない世界になからなければ頂けないおかげが味わせて頂けれる。是は私が思う事である。時々お結界で眼を瞑ってみる。もう一辺瞑ってみる。
 そして筆もとる事も、此処にいろんなものを触ってみる事も、その触って見るその味わいと云う物は、眼を開いて触らしてもらう味わいとは違う。ほう是は目が見えんごとなっても、楽しい世界があるなと私は思う。耳が大変私も遠い。片一方の耳は全然聞こえない。片一方の耳も人より大分遠い。で是が全然聞こえなく成った所でです、さあそればいっちょう聞こえる様にとは私は思わんだろう。もう目が見えないなら見えない耳が聞こえないなら聞こえない。
 そこにある有難い世界をそこから新たに開いて行こうという気持ちにならせて頂いたらどうだろうかと。言う様なね決して医者にかかるなと言う事じゃないよ。だから問題はそういう心を開くと云う事なんだから。信心とは。そういう時にね、それが今日頂きますままよという心なんです。ね、昨日、久富繁雄さんにも夕べ話さして頂いた事なんですけれども、例えば親先生が東京へ行かれる。私はどうでも行って貰いたいと思う。けれども乗り物に弱いから御無礼するという。
 だからそんな時に私が無理を言や、あんたが来るか知れんばってんね、そん時に無理を言われたりね、こげん時にままよという気を出すとよと言われて、ははあそうかもというても、そのままよでは詰らんとじゃ。不思議な事です、だから、是から何時私が半年後、一年後に、何処へ行くか解らん時にゃね、どうでもこうでも、そん時にゃままよという心になって、船もろともという心になって、お供が出来る様な稽古を、今日からさして貰わねばいけないようと、夕べ話さしてもらった事でした。
 そん時にさあ日頃なんば、信心しょんのと、例えば、昨日私が中村さんに申しました様にですね、私は医者に掛かるなと言いるとじゃないよと、言う事を言わんならんごとなる。そういう心がです、例えば飜燃としてそう言う時に、開けて来ると言う事。だからその時になって見なければ解らんのですけれども、そう云う愈々の時にです、所謂ままよという度胸が出来るというか、中村さんがいうならばです。由是が見えなくなっても不平不足はないと云う様な心になってです。
 目が見えんごとなったら、目が見えんごとなった世界に、有難い物を求めて行こうと云う様な、心になればね、お徳が受けられると仰るです。前の所はおかげを受ける、前半の所は、おかげを受ける為には、受け物を大事にせなければいけないぞという。だから大事にすると云う事はです、勿論心を大事にする事ですけれども、只、大事にするだけではない。その心が愈々豊かに大きうなる事を努めなければならん。
 大きゅうばっかりなったっちゃ、汚いならば折角の物が汚れて、おかげが汚れますから、それを限りなく美しゅうなる事に努める精進をさせてもらう。そういう精進をさして頂きながらです、私共がお徳を受けるチャンス言う機会と云う物をです、何時もあるものじゃないけれども、そういう時にお伺いをしたり、お願いをしなければならない様な信心を、ではなくてです、親先生目が見えなくなって来ました、愈々もう不自由いたします。けれども私七十七年間も長生きのおかげを頂かして頂いて。
 見えんごとなったら、見えんごとなった世界でです私は有難い、今まで感じ切らなかった世界を頂いて行きたいと思います。是がままよという心どうでも一つお医者さんが請け負うて下さると言うから、掛かっても良いでしょうか。ああそりゃ掛かっても良い所じゃないよ。掛かっておかげでなら見える様になった。片一方の目が所が実際はもう寿命がなかったと言う様なおかげで終わる様な事ではいけないでしょう皆さん。ね。
 ですから信心の稽古を本気でさして頂いてです、さあ、繁雄さん私は今日から東京へ行くばのと、いや私は酔いますから、いや大丈夫、私と行きゃ、そんな事で行くなら、絶対酔うでしょう。ね。けどなら、本当に私は酔います、けれども一つ死んだっちゃ良かと云う気でならお供しますという信心が出来た時には、もうそれは酔うとか酔わんじゃなくて、徳を受ける人間が徳を受けりゃ酔いよった者が酔わん。もう寿命無い者でも徳によって寿命を又頂く。
 徳を受けりゃ思いもかけないおかげが開けてくると云う事になるのです。今日はおかげの受け物を愈々綺麗に、しかも豊かに大きくさして頂く稽古。それは何時もね、だからお互いが受け物をやはり大きくしょう、綺麗にしょうと云う気になっとかなければ、事に臨んだ時に、もう愈々大きくなれる様な、心が大きく成れる様な材料を頂いても、それを無駄にししてしまう。はあ此処で心を綺麗にせにゃと云う材料を頂いても。
 それによって研こうでもなければ、改めようともしないならば、何時まで経っても綺麗にならない。是はまあ勿論の事です。ね。本当におかげを受けたいならば、おかげの受け物を作らにゃいかん。そのおかげの受け物を氏子が作る事を神様は願って御座るのです。それも気長い心で待って御座るね。その気長に待って御座ると云う事はもう、実に切ない心で待って御座るです。もう是は何時まで経っても解らんから、構わんと言うのではなくて、いつかは解ってくれるだろう、何時かは解ってくれるだろう。
 どう云う事か、信心とは本心の玉を研くもの。信心とは日々の改まりが第一だと言う事を、本当に解ってくれると云う事。それが解った所から綺麗にもなりゃ、美しゅうもなりゃ大きゅうにもなれる、それを飜然として解った所からです、おかげの受け物と云う物が出来で来る。お徳を受けると云う事はです、そう何時もザラにあるものじゃないけれども。私共信心生活をさせて頂いているうちにです、此処は日頃の信心に物言わせてと云う様な、それこそ此処ん所が、船もろともじゃろう。
 ここん所が愈々、ままよという心の所であろう、もうままよとは死んでもままよという心を出すのはこういう時だろうというふうにですね。その時にいわれて出すのじゃない。それが出て来る様な信心を頂かして貰うて、始めて徳が受けられる。ままよという心を出す所からお徳が受けられる。愈々受け物を作った所から、受け物次第のおかげが受けられる様になる。おかげを受け、徳を受けて行くいわばチャンスをです私共がもっと厳密に大事にして行かなければいけないと思いますね。
   どうぞ。